タイの人々は基本的には「これまで悟りを開いて仏陀となられたのはお釈迦様ただ独り。」という考えで、阿弥陀如来・薬師如来・大日如来など仏様のたくさんいる我々の世界の仏教とはずいぶん違う。しかし、歴史的には彼らの仏教の方がオリジナルの仏教に近いことは確かで、悟りを開いて仏となることによって輪廻の輪の中から抜け出した存在になる、という目的は変わらない。それを出家して修行し悟りを開くことによって自力で達成するのか、仏様の他力にすがるのかという点が大きな相違点だ。

 タイのお坊さんの読経に使われているのはパーリ語だ。雅語としてのサンスクリット語 (梵語)に対し、俗語としてのパーリ語と位置付けられる。一般のタイ人には解らない言葉だから、我々にはなおさらチンプンカンプンだが、仏教関連の用語やタイの地名の中にはサンスクリット語(梵語)やパーリ語から入ってきた単語は少なくないのだ。

 

伽藍(がらん): タイ人は通常お寺のことをワットと言うしかし正式にはワット・グラーム(あるいはガラーム)と言い、このガラームが伽藍なのだが、日本では伽藍と言った場合は「伽藍配置」などと言って寺の建物全体を指すようだ。しかし、本来は僧が集まって修行する場所のことを意味し、日本語では僧園あるいは精舎などと訳す。有名な平家物語の出だしに「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とあるが、祇園精舎というのは須達長者という人が釈迦のために建立した寺院で、実際にインド中部に遺跡があるそうだ。

: パーリ語で女性あるいは母のことをアンマという。別にマッサージしてくれる女性のことではないので誤解の無いように。

旦那: 梵語で僧やお寺などに寄進する行為をダーナと言う。スポンサーのことを檀那(あるいは旦那)というのはこれから来ている。現代のタイ語ではサイ・バートという。

アショカ王: スクムビットのソイ21をアソークと言うが、これがインドのアショカ王のことだと最近のインド映画を見て知った。在タイ歴○○年の小生としては不覚であった。紀元前250年前後のインドの王様で、仏教を保護した理想的な王様と言われている。しかし、インド映画というのはシリアスな場面から突然歌と踊りになってしまったりしてなかなか見ていて笑えるものである。研究の余地ありだ。

ルンピニ: お釈迦様が生まれたのがルンピニという所で、現在の国境線によればインドではなく、ネパール領内になるのだそうだ。現代のルンピニ公園のようなヤバイところではないだろう。彼はシャーキヤ国(釈迦国)の王子であったわけだが、29歳で全てを捨てて出家し35歳で悟りを開いた。凡人の我々が全てを捨てても“出家”とは言わず、“家出”と言われるだろう。

涅槃(ねはん): 煩悩が消えて悟りを開いた状態あるいはその世界をニルバーナと言う。「ねはんで待ってる。」と名言を残して死んだ俳優もいた。 タイ語ではニッパーンと言う。

卒塔婆(そとうば): お釈迦様が入滅された後、その骨(仏舎利と言う)を埋めて小さな塔を建てたそうだ。その塔をストゥーパと言い、皆で礼拝し、仏教寺院の原型となったのではないかと言われている。日本語では卒塔婆(そとうば)と言 って、法要の時などにお坊さんがお経などを白木の板に書いてくれたものをお墓に納める。つまり卒塔婆というのはもともとは「ここに仏様が眠っていますよ。」という証だったのだ。ちなみに、考古学的に本物のお釈迦様の骨であろうと言われているものが、1900年(明治33年)にラーマ5世(チュラロンコン王)から日本に贈られた。(もともとはインドからタイに贈られた物)現在は名古屋の日泰寺というところに保管されている。このお寺だけはどの宗派にも属していないそうだ。(最寄の駅は地下鉄・覚王山駅、愛知学院大学そば)

娑婆(しゃば): 我々の住んでいるこの世のことを梵語でサハーと言う。古代インド人はこの世は苦しみに満ちた世界と認識していたようだ。

般若: 智恵(仏教用語では智慧と書く)のことをパンニャーと言う。般若心経の般若である。般若心経は非常にポピュラーなお経で、暗記してしまっている人も多い。スクリーン・セーバになっているものも見たことがある。(ちなみにフリーウェアだった。)“色即是空 空即是色”という部分が有名だが「この世には永遠・絶対のものは無いのだ。」という“空”の思想に基づいており、日本人の心に訴えるものがあるのだろう。平家物語や方丈記などにも相通ずる思想だ。しかし、そのために「阿弥陀如来だけは絶対的な存在である。阿弥陀如来のいる極楽浄土は不滅である。」という思想の浄土真宗では般若心経を読むことはできないのだそうだ。小生の知り合いに「ウチは真宗だけど、おばあちゃんは般若心経唱えてるよ。」という人もいるのだが。

ヴァイロージャナ: 太陽あるいは光明を意味する。東大寺の大仏を毘盧遮那(びるしゃな)仏というが、これはこの言葉から来ており、密教系ではその意を取って大日如来と呼ぶ。真言宗で「おん、あぼきゃ、べいろしゃのう」などと言うが、この“べいろしゃのう”というのがヴァイロージャナである。真言と言うのは、お釈迦様がしゃべったであろう言葉をそのまま訳さずに唱えることで、お釈迦様と一体化しようという発想なのだ。これまでお釈迦様はサンスクリット語を話したということになっていたが、最近の研究ではどうもそうではないらしいということになっているそうだ。今更お経を変えるわけにはゆくまいが。毘盧遮那仏がもっと偉大になると摩訶毘盧遮那仏となるそうだ。摩訶不思議の摩訶である。英語で言うとBIGあるいはGREATということになるだろうか。タイ語でもマハー○○という名前のついたお寺などは多い。総合大学のことをマハー・ウィタヤライというが、このマハーも同様の意味である。単科大学だとウィタヤライだ。

マンダラ: 本質的なもの、すなわち悟りを開いた存在と解釈される。曼荼羅あるいは曼荼羅と書く。いろいろな国の曼荼羅を見ていると、何だか魔物のようなものが書かれているものに出くわすが、これは「すべてのものに仏性(仏となることができる性質)がある。」「このような魔物でさえ仏の教えにうたれ改心した。」というような意味合いになっているのだそうだ。

 

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